2016年8月31日水曜日

食卓と古い陶片



我家の古い陶片は家内を経てある日突然にやって来ました。
私自身、骨董マニアという訳ではありませんが古い物が好きと言うこともあり何点かはそれらしきものは所有していますが陶片(簡単にいえば割れた陶磁器のかけらです)はさすがに初めてです。

ところが飾ってみるとこれがなかなか良いもので、まず想像力が掻き立てられます。
完品が勿論素晴らしいのは当然のことですが、「かけら」をじっと眺めていると「全体の図柄はどうだっのか」「こんな破片を誰がどこで見つけ(目をつけ)今日に至っているのか」など様々なことが頭の中をめぐり自分なりのこの陶片が完品だった時の姿ができあがります。

そういえば以前、飛騨高山の渋草焼の窯元を訪ねた時その敷地内に残された古い陶片は当時の図柄を現代の作品にいかすための先祖からの大切な贈り物だとの言葉を思い出します。
また、岐阜県の多治見の街角には古い陶片がズラッと並べられた骨董店なども見うけられました。
こうしてみると製作者にとっても骨董商にとっても陶片が大切なものであることは間違いないようです。

「気に入った小さな陶片を愛でる」こんな骨董の楽しみ方もまた「初めての骨董」には良いのではないでしょうか。
ところでタイトルに「食卓」とあるのは私は気に入ったものを食卓の片隅に飾ります。酒を飲みながら、食事をしながらこれらのものを眺めるのは一日の締めくくりには最高のひとときで家内との会話もはずみます。


そして私に骨董を教えてくれる骨董誌「小さな蕾」(創樹社美術出版刊)何より180×130mmという片手で開ける本のサイズが最高です。
2016年4月号そこには「暮らしの中の伊万里」という特集が組まれていました。
今の私にとっては「食卓で陶片を愛でる」が暮らしの中の伊万里であり骨董なのです。


2016年8月18日木曜日

楽曲データとしてCDと付き合う



最近、特に少し古めのJAZZ関連のCDはダウンロードで楽曲を購入するより安価で入手できるものが多くなってきているように感じます。

Wes Montogomery / Full Houseもそんな一枚でPCオーディオの音源にとダウンロード版を探しましたがなかなか良い物が見当たらず購入したものです。
ご存知のとおりダウンロード音源はHD Tracksなどのハイレゾ配信サイトでない限りMP3やM4aの圧縮音源が一般的で更にアルバム一枚分の購入となると価格もそれなりとなります。
そんな最中に目に留まったのが写真のアルバムで価格は1,200円ほど、会員だったので送料も無料と正にダウンロードを上回るコストパフォーマンスで当たり前ですが音質は44.1kHz/16bit非圧縮ですからいうことありません。

かなり以前から往年の名盤の低価格化がどんどんと進んでおり、それもレーベル単位での発売も多くコンプリートでコレクションするのも容易です。
ある意味PCオーディオをやっている者にとっては巷に高音質音楽データが溢れている嬉しい状況ではないでしょうか。

そしてCD音源であればリッピングするも良し、ストリーミング再生するも良しで仮にデータ破損しても常に手元にバックアップディスクがあるようなもので安心です。
私などCDというパッケージに執着心がないので複数のHDDにバックアップを作成しCDはリセールに出しまた新しいCDを入手するということの繰り返しが部屋に物がたまらず最良の方法と考えていますが。

今思いかえせば以前CDショップに買い物に行っていた時は目の前に宝の山があるように思えて「大人買い」などと称し大して聴きもしないであろうCDも手当たりしだい購入していたこともありました。
今このようにネットショップを利用するようになり一枚一枚本当に聴きたい音源を吟味して購入し、それをじっくり丁寧に聴くようなスタンスに戻れたことは自分にとってうれしい副産物です。

とりとめのないことを書いてしまいましたが要は長い年月蓄積されてきたCDという財産をPCオーディオだからとハイレゾやMP3などのダウンロード音源ばかりに頼らずもっと味わい尽くそうという提案なのです。




2016年8月8日月曜日

古い二眼レフ ミノルタコードに思う




おそらく私の幼少期はすべてこのカメラで写されたであろうミノルタコード。
二眼レフとしては小型なボディなのですが現在のいかなるカメラも太刀打ちできない存在感を放っています。

約60年程前のこのミノルタコードは私の父にとっておそらく初めてのカメラであったと思われます。
露出計が内蔵されていないなどは当然のことで、フィルム装填の良し悪しで写りや撮影枚数に問題が発生するのもこの当時のカメラでは当たり前のことでした。
旅行写真など楽しみに現像すると何も写っておらず真っ黒であったり、ピンボケで何が写っているのかわからないなど、母がよく父にぼやいていたことを当時子供心ながら記憶しています。

現代のカメラのように誰がどの様なシチュエーションで撮影しても間違いのない写真が撮れるのは勿論素晴らしいことですが、失敗と隣り合わせのリスクを内包しているこのようなカメラもまた素晴らしいものであると私は考えます。
「ライカ使いの名手、木村伊兵衛」などという心ときめかせる文言はもはや現代には存在しないことは機械好きの私にとっては少し寂しい限りです。

カメラ以外でも不確実であるがゆえに上手くいった時の達成感が感じられる昭和初期~中期の少し手のかかる機器を手元に何か一つ置いてみると単調な現代の生活の中に彩をあたえてくれることは間違いのないことでしょう。